Hard to measure, but surely there. Vol. Ⅱ
What I Found and Struggled
― 見えなくても、確かにそこにあるもの ―
― 発見と葛藤の日々 ―
2014年9月。
それは、もしかしたら、私が自分の人生史上、もっとも自信に満ちていた時だったかもしれない。
私に大きなチャンスを与えてくれたラフバラ大学は、イギリス中部の田舎町にあった。ロンドンのセント・パンクラス駅からEast Midlands Trainに乗り込み、約2時間半。元サッカー日本代表・岡崎慎司選手が所属したレスターシティを過ぎると、ラフバラに着く。
ロンドンからその地に居を移すことになった私は、車窓から流れるイギリスの田園風景を眺めながら、渡英してからの日々を思い起こしていた。
大学院入学を目指したものの、IELTSのスコアが思ったように伸びず、苦しんだ。語学学校の教室で授業中に過呼吸になり、先生に救出されて、近くの公園で子供のようにしゃくりあげ、人目も憚らずに泣いたこともあった。
ようやく希望する大学院に入学したものの、教授の言ってることも、クラスメートの言っていることも、ほとんど分からず、言いたいこともうまく伝えられず、自分はここにいる資格はないのではないか、と悩んだこともあった。
そんな自分が、Royal Albert Hall で、アカデミックガウンを身に纏い、苦楽を共にした同級生たちと、晴天の空に向かってハットを高々と投げ、卒業を祝うことができた。あの瞬間ほど自分を誇らしく思ったことはない。そして、在学中に情熱を傾ける研究テーマに出会い、British Fundingを獲得して、博士課程に挑む。まるで夢のような気分だった。
ラフバラにフラットを借りた私は、やる気に満ち溢れていた。これから自分のキャリアを再構築するんだと意気込んでいた。
私は、サービスデザインの持つ概念やアプローチに魅了されてはいたものの、同時に強い違和感も覚えていた。そして、その違和感こそが自分をここまで導いた原動力でもあった。
「サービスデザイン」は、その名の通り「サービス」と「デザイン」の2つを合わせたもの。言葉だけを見れば、この2つは並列に並んでいる。だが、その実、ディスカッションは常に「デザイン」側の視点によって展開されていた。「サービスデザイン」に「サービス」が不在であるというアンバランスさがあった。そもそも「サービスデザイン」は、「デザイン」文脈の中から語られるようになったものだから、当たり前と言えば、当たり前なのだが、アカデミアにせよ、プラクティスにせよ、その界隈には「サービス」側にバックボーンを持つ者は、皆無に等しかった。
「サービス」のDNAを持つ私は、「サービスデザイン」には、もっと「サービス」のスピリットが注ぎ込まれるべきだと思っていたし、今後、サブジェクトとして成熟していくためには誰かがそれをすべきだと感じていた。そして、その「誰か」に、自分がなってやろうと思っていた。
私が博士研究員として所属することになったのは、新設のService Design Centre for Doctoral Trainingで、デザインスクールと芸術学部のジョイントプログラムだった。未来のドクターホルダーが世界中から集っていた。頭がキレキレの仲間たちと、英語で抽象論を語り合うことは、私にとって容易なことではなかったけれど、不思議と苦悩はなく、ただ、ひたすらに刺激的だった。
人文学系の研究者にとっての最大の武器は「言葉」。だから「母国語」ではない武器で闘うことは、大きなディスアドバンテージ。けれど、当時の私はそんなことは、ほとんど意に介してはいなかった。議論の中で、時として「言葉」を超えて「脳みそ」が共鳴するような感覚があったから。
やる気と刺激が、落胆と劣等感に変わっていったのはいつ頃のことだったか、何がきっかけだったか、今となってははっきりとは思い出せない。
イギリスのアカデミアでは、各学位において、到達すべき最低限のレベルが明確に設定されている。博士課程においては、アカデミックフィールドに、新たなサブジェクトを生み出すための種まきができているか、が評価基準。具体的には、修士論文で展開した独自のアーギュメントとディスカッションポイントに対して、仮説を立て、リサーチ結果からその仮説の妥当性を検証する。その検証結果から新しい視点や概念を導き出す。そして、まだ一般的に認知されていない現象の輪郭を掴み、形を与え、言葉を与える。それができた者に授与されるのが「博士号」だ。
だからこそ、クリティークに晒される。そもそも「まだ輪郭を与えられてない事象」や「概念として言葉で説明されていない事柄」に取り組むのだから、理解者が少ないのは当たり前。むしろ、少ないことにこそ意味があるとも言える。誰もがすでに知っていて、簡単に理解してくれるようなテーマは、博士課程で研究するに値しないのだから。
今ならわかる。クリティークが多ければ、多いほど、それは興味を掻き立てている証拠であって、そのようなテーマや視点にこそ、価値があり、意味があるということに。
ただ、当時の私は、このクリティークに耐えきれなかった。私は完全に「褒められて伸びるタイプ」の人間なので、クリティークに晒されるうちに、どんどん自信を失っていった。やがて、自分の信じたテーマを、信じきることができなくなっていった。
イギリス中部の田舎町で、日々のほとんどの時間を「読む」「書く」「考える」に費やす。数日間かけてやっと生み出した数行の文章を翌日、全て削除する。そんな日々を繰り返していた。SNSには、同世代の活躍や、充実したライフスタイルが溢れていた。そのキラキラした感じと、自分の地味な日々のあまりのギャップに眩暈を覚えていた。
「こんなところまで来て、私はいったい、何をしているのだろう」
そう思うと、外に出るのも怖くなった。一日中、カーテンを閉めて、部屋に閉じ篭もるようになっていった。悪いことは重なるもの。私の良き理解者であった指導教授は病気になり、あっという間に目の前からいなくなってしまった。彼女は、私以上に私のテーマとポテンシャルを信じてくれた人だった。
私は休学という選択をするしかなくなっていた。
シンプルに自分の転落の理由を探すのであれば、覚悟が足りなかった。そういうことだと思う。
つづく